兵主神社の歴史・ご由緒

  1. HOME
  2. 歴史・ご由緒

延喜式内社

当社は、天正年間に兵火に遭い縁起帳や多くの古記録が焼失しましたので、創建の年代を詳らかにできませんが、『延喜式』平安朝初期延長五年-西暦九二七年-官撰)という古い文献に「和泉国和泉郡廿八座」の中に「兵主神社」と明記され、また、これら延喜式内社を注解した『神社覈録』という本には「兵主神社、兵主は音読也、祭神明也、南部掃守郷西之内村に在す」とあることから、当社が千有余年前、すでに存立されていたと思われます。
『延喜式神名帳』はもちろん『神祇志料』『大日本史』『大日本風土記』『伊呂波字類抄』『和泉志』などの諸文献にも当社が古来から建立されていたとの記録があります。

雨降の神

当社は元掃守郷の総社にして俗に大宮と称せられ、また荒神と呼ばれ雨降の神として崇敬せられました。往昔は、掃守郷の春木、加守、尾生、別所、下松、西之内、藤井、額原、沼、野、上松の各村と山直郷の包近村の十二ヵ村より袮宜一人づつを出して奉仕して参りましたが、天正年間兵火にかかってから後、各村は、追々それぞれ氏神を勧請せられました。
当社はそれ以来、本地西之内だけで、奉仕してまいりましたところ、明治四十二年、下松村の八幡神社、菅原神社及び厳島神社を合祀以来は西之内、下松の両村で奉祀し来りました。
江戸時代において、早魃のため雨乞祈願の際には、なお、從前の十二ヵ村より庄屋、年寄が出仕するを例としました。
寛政六年(一七九四年 徳川家斉公)、文政六年(一八二三年同公)、同九年(一八二六年同公)の記録によって、

雨乞祈願の模様を掲げますと「岸和田藩主は郷内の宿老を集め代參を立てて祈雨の祭典を修め又郷民において雨乞を修むる時は、庄屋年寄より願書を提出し、許可を得てこれを行なったのである」、「境内に陀渕有之、鵜葦草葺不合尊の御母豊玉姫御座まします龍宮渕に御座候、右郷内雨乞祈願の節は、別当久米田寺多聞院を相招き、陰陽榊木赤白幣をもって蛇渕にて読経修行仕候、猶又、天降り給う御面有之、雨乞の度々神前に餝置候へば日々に競水有之候」とあります。
更に降雨に対する雨礼の祭典には「必らず氏子総出にて一種独特の踊を奏したるなり、此の踊は笹踊又は花笠踊という、種々仮装をなし、花笠を冠り、笹を持ち太鼓に合せて踊るなり、踊の種類二十六、それぞれの歌詞、道歌がある」此の踊りは明治初期まで当地に伝えられました。

天降の面

当社は元掃守郷の総社にして俗に大宮と称せられ、また荒神と呼ばれ雨降の神として崇敬せられました。往昔は、掃守郷の春木、加守、尾生、別所、下松、西之内、藤井、額原、沼、野、上松の各村と山直郷の包近村の十二ヵ村より袮宜一人づつを出して奉仕して参りましたが、天正年間兵火にかかってから後、各村は、追々それぞれ氏神を勧請せられました。
当社はそれ以来、本地西之内だけで、奉仕してまいりましたところ、明治四十二年、下松村の八幡神社、菅原神社及び厳島神社を合祀以来は西之内、下松の両村で奉祀し来りました。
江戸時代において、早魃のため雨乞祈願の際には、なお、從前の十二ヵ村より庄屋、年寄が出仕するを例としました。

村人も何びとが献納したのかを知る者がいないのであるが、この面をよく視るに、おしろいやまゆずみが、はがれおちて、それが老人か、壮者か、男か、女か、会得し難いものがあり、実に古物という外はない。
おもうにこれは昔、宴舞に用いた仮面であろう。藩主岡部美濃守藤原長富公は、面をこのまま保存するのは不敬である、神物とて貯蔵する所以ではない、と思召され、綿の袋をもって外装を施したいとせられた。
近臣乾新作、降屋与右衛門等は主君の誠意を謹承し、更に紅襴鳳桐金絞を用いて九袋を作り、それぞれ面を襲って諸神の殿便に納められる」とあります。
社宝:(三)武器 十余点 (四)狗犬 二対
社宝:(一)能面 九面  (二)御剣 二振